北条時宗(ほうじょうときむね) 北条時宗は,鎌倉幕府の第8代の執権(しっけん)です。文永(ぶんえい)弘安(こうあん)(えき)では,元軍(げんぐん)の日本侵入をしりぞけましたが,独裁(どくさい)的な政治が目立つようになりました。

 北条時宗(1251〜1284年)は,第5代執権(しっけん)の北条時頼(ときより)の子として生まれました。時宗が18歳で執権(しっけん)となった1268年,中国の(げん)皇帝(こうてい)フビライは,日本に使者(ししゃ)を送り,服属(ふくぞく)することを要求しました。時宗はそれをはねのけたので,1274年と1281年に元の大軍が,九州の博多に()めよせました(元寇(げんこう))。時宗は御家(ごけ)(にん)を組織して元軍と戦い,2度ともしりぞけました。

 時宗はまた,幕府内で権力の独裁(どくさい)()をおし進めましたが,この動きが人々の反発(はんぱつ)を招いて,後に鎌倉幕府が滅亡(めつぼう)する原因の一つとなりました。晩年は禅宗(ぜんしゅう)を深く信仰(しんこう)し,鎌倉に円覚(えんがく)()を建てました。


御家(ごけ)(にん)

 鎌倉時代,将軍と主従(しゅじゅう)関係を結んだ武士のことです。