文永の役
元軍は,日本を従えようと,1274年10月に約900隻の軍船と約3万人の兵力で,対馬・壱岐を攻め落としてから,北九州におしよせました。元軍の戦法に日本軍は悩まされましたが,御家人の活躍と暴風雨が元軍の船をおそったこともあって,元軍は引き上げました。これを文永の役といいます。
その後,1281年6月には約4,400隻の軍船と14万人もの兵力で再びおしよせましたが,幕府軍の抵抗で上陸できず,暴風雨で打撃を受け,引き上げました。これを弘安の役といいます。
元軍は文永の役のときは,属国の高麗軍と,文永の役のときは,高麗軍にくわえて,江南軍(元がほろぼした中国の旧南宋の軍)とともに,日本攻撃を企てましたが,高麗軍も江南軍も戦闘意欲は高くありませんでした。
元寇以後も,元は日本への襲撃を計画していました。そのため幕府は九州地方警護のため,御家人以外にも全国の荘園の武士を動員する権利を朝廷から得るなど,西国への支配力を強めていきました。また北条氏のなかでも,北条時宗のように,家督を継ぐ者の権力が強大になりました。
御家人
鎌倉時代,将軍と主従関係を結んだ武士のことです。
元寇史料館
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