源氏と北条氏 (みなもとの)頼朝(よりとも)(つま)政子(まさこ)の父である北条時政(ほうじょうときまさ)執権(しっけん)(くらい)について以来,北条氏がその職を受けついで執権政治を行ない,政治の実権を(にぎ)りました。

 鎌倉幕府で将軍を補佐(ほさ)する(しょく)執権(しっけん)といいます。(みなもとの)頼朝(よりとも)の妻の政子(まさこ)の父にあたる北条(ほうじょう)時政(ときまさ)が執権になって以降(いこう),北条氏が代々その職を受けつぐことになりますが,頼朝の死後,北条氏はほかの有力な御家人(ごけにん)を次々と(たお)し,政治の実権を(にぎ)るようになりました。朝廷(ちょうてい)は北条氏を追討(ついとう)しようとしますが,失敗します。その後,時政の孫の泰時(やすとき)評定衆(ひょうじょうしゅう)の制度を設けたり,「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を定めて幕府の基盤(きばん)をかためました。執権の北条氏による政治を執権政治とよんでいます。


評定衆(ひょうじょうしゅう)

 執権(しっけん)の政治上の顧問(こもん)として,北条泰時(ほうじょうやすとき)が1225年に創設(そうせつ)しました。評定衆は執権とともに,評定所において裁判(さいばん)政務(せいむ)合議(ごうぎ)裁決(さいけつ)しました。幕府の最高政治機関で,政所(まんどころ)および問注所(もんちゅうじょ)執事(しつじ)兼務(けんむ)しました。人員は15名程度(ていど)でした。