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後鳥羽上皇画像
後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう) 後鳥羽上皇(1180~1239年)は,朝廷の勢力(せいりょく)を回復させようと,幕府に対して兵を()げましたが,失敗。隠岐(おき)(島根県)に流されて,ここで亡くなりました。

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北条政子座像
北条(ほうじょう)政子(まさこ) 北条政子(1157~1225年)は,北条(ほうじょう)時政(ときまさ)の娘で,(みなもとの)頼朝(よりとも)(つま)でした。頼朝の死後は出家(しゅっけ)し,北条一族の中心として政治を行ない,(あま)将軍(しょうぐん)と呼ばれました。

 源氏(げんじ)の将軍が3代で()えると,後鳥羽(ごとば)上皇(じょうこう)は政権を朝廷に取りもどそうと,1221年(承久3年)に執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき)追討(ついとう)の命令を出しました。それに対して,北条(ほうじょう)政子(まさこ)御家(ごけ)(にん)団結(だんけつ)して戦うことを(うった)えました。戦いは幕府側の勝利におわり,幕府は後鳥羽上皇・順徳(じゅんとく)上皇・土御門(つちみかど)上皇をそれぞれ,隠岐(おき)佐渡(さど)土佐(とさ)へ流しました。そして朝廷(ちょうてい)(がわ)についた公家や武士のおもだった人々は処刑(しょけい)されました。また,京都には六波羅(ろくはら)探題(たんだい)を置いて,西日本の支配や朝廷の監視(かんし)をさせました。

 この承久の乱後,公家の勢力(せいりょく)はおとろえ,武家政権の勢いはいっそう強くなりました。以後,公家政権は自力で日本全国を支配(しはい)することはできませんでした。