拡大


下地(したじ)中分(ちゅうぶん) この地図は伯耆(ほうき)国(鳥取県)東郷(とうごう)荘の下地中分で,地図上には領家(りょうけ)分(荘園領主(しょうえんりょうしゅ)松尾神社)と地頭(じとう)分の境界(きょうかい)線が(しる)されています。

拡大


下地(したじ)中分(ちゅうぶん) この地図は伯耆(ほうき)国(鳥取県)東郷(とうごう)荘の下地中分で,地図上には領家(りょうけ)分(荘園領主(しょうえんりょうしゅ)松尾神社)と地頭(じとう)分の境界(きょうかい)線が(しる)されています。

拡大


下地(したじ)中分(ちゅうぶん) この地図は伯耆(ほうき)国(鳥取県)東郷(とうごう)荘の下地中分で,地図上には領家(りょうけ)分(荘園領主(しょうえんりょうしゅ)松尾神社)と地頭(じとう)分の境界(きょうかい)線が(しる)されています。

 武士が力をもち,支配力を拡大しようとするようになると,土地の境界(きょうかい)年貢(ねんぐ)徴収(ちょうしゅう)に関して,荘園領主(しょうえんりょうしゅ)などとの間にいさかいがおきるようになりました。とくに承久(じょうきゅう)の乱ののち,東国(とうごく)の武士が近畿(きんき)地方などに地頭(じとう)として任命されるようになると,争いはますます(ひろ)がっていきました。地頭が荘園領主に従わず,年貢を(おさ)めなくなると,困った荘園領主は土地を二分して,半分を地頭に与え,残りの半分から地頭の勢力を排除(はいじょ)して,年貢を確保するようになりました。これを下地(したじ)中分(ちゅうぶん)といいます。幕府も当事者同士の和解をすすめたので,しだいに荘園などの実際の支配権が地頭へと移っていきました。