鎌倉(かまくら)復元模型(ふくげんもけい)) 頼朝は鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)から南の海岸まで一直線の道路(若宮大路(わかみやおおじ))をつくり,これを中心として何本もの道路を走らせました。また,おもな切り通しは七つありました。

 鎌倉(神奈川県)は『万葉集』の東歌(あずまうた)にその名を()まれ,奈良時代には役所が置かれ,この地方の中心でした。平安時代後期に(みなもとの)頼義(よりよし)が鎌倉を所領(しょりょう)として鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)を建てたときから,鎌倉は源氏(げんじ)ゆかりの地となりました。鎌倉は三方を山で(かこ)まれ,前方は海に(めん)しているので,(てき)侵入(しんにゅう)(ふせ)ぎやすい場所でもありました。周辺の山には交通路として切り通しという(せま)い道をつくり,その入り口には木戸(きど)を設け,都市を防衛(ぼうえい)しました。この形はヨーロッパの中世都市とよく似ています。


幕府の位置

 (みなもとの)頼朝(よりとも)は幕府を鶴岡(つるがおか)八幡宮(はちまんぐう)に近い大倉(現在の雪ノ下3丁目)に開きました(大倉幕府)。その後,若宮大路(わかみやおおじ)の東側(現在の小町2丁目)に移りました(若宮大路幕府)。