兼好(けんこう)法師(ほうし) するどい観察力によって,いろいろなできごとを見つめ,自由に批判した随筆(ずいひつ)徒然草(つれづれぐさ)』を(あらわ)しました。

 『徒然草(つれづれぐさ)』の著者(ちょしゃ)である兼好法師の本名は占部兼好(うらべかねよし)で,吉田兼好(けんこう)ともよばれています。後二(ごに)(じょう)天皇に(つか)えましたが,30歳ごろ出家(しゅっけ)し,兼好を「けんこう」と音読みするようになりました。京都・吉田神社の神官の家系とされたために,江戸時代になってから,吉田姓でよばれるようになりました。出家後は,修学院(しゅうがくいん)(京都市)や比叡山(ひえいざん)横川(よかわ)で,仏道修行と和歌の道に(はげ)みました。当時は和歌四天王(してんのう)の一人とされていました。関東にも旅し,金沢(かなざわ)文庫(ぶんこ)を訪れたこともあります。

 『徒然草』が,いつ書かれたのかはっきりしていません。『徒然草』では人生,自然,政治,仏道など,さまざまなことを自由に批評しています。兼好は仏教のほかにも,儒教(じゅきょう)老荘(ろうそう)思想にも通じていたので,独自の幅広い人生観をもっていたのでしょう。歌集としては『兼好法師(ほうし)集』があります。なお生没年は不明です。