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マルコ=ポーロ マルコ=ポーロは約17年間,(げん)にとどまり,アジアでの見聞(けんぶん)を広めました。そして帰国後,旅行記『東方(とうほう)見聞録(世界の記述)』を(あらわ)しました。

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マルコ=ポーロの旅行路 マルコ=ポーロが中国までやってくることができたのは,十字軍(じゅうじぐん)遠征(えんせい)によって,イタリアの諸都市が栄え,東方(アジア)との貿易を活発に行なっていたためでした。

 マルコ=ポーロ(1254〜1324年)は,東方貿易を行うイタリアのベネチア(ベニス)商人の子として生まれました。17歳のころ父ニコロらに(ともな)われ,ペルシャのタブリースをへて,ケルマーン,カシュガル,ヤルカンドなどのシルクロードの都市を通り,4年の歳月(さいげつ)(つい)やして,当時の中国の王朝(おうちょう)であった(げん)の都,大都(だいと)(現在の北京(ペキン))に着きました。皇帝(こうてい)フビライに気に入られ,マルコは外交および貿易上の顧問(こもん)として,その後17年間,元にとどまり,政府の役人として中国各地へ出かけて,見聞(けんぶん)を広めました。

 1290年ごろ,フビライの王女をモンゴル帝国の一つ,イル=ハン国まで送っていく命を受け,泉州(チュワンチョウ)福建(フーチェン)(しょう))から海路,セイロン(現在のスリランカ)のコロンボをへて,ホルムズに上陸しました。王女の結婚がすむまで,ペルシャにとどまり,1295年ごろ約24年ぶりにベネチアにもどりました。そしてアジアの旅行記東方見聞録(とうほうけんぶんろく)(世界の記述)』(あらわ)し,中国や日本のようすを初めてヨーロッパに紹介(しょうかい)しました。日本は「ジパング」という名で登場し,黄金(おうごん)の国と書かれています。